■バイファム誕生と企画会議
1982年。「ダグラム」や「ザブングル」などSFロボットアニメの放映がピークであったこの年の暮れ、TVアニメ「銀河漂流バイファム」の企画は静かに始動しました。翌83年に入ってすぐ主要制作スタッフによる企画会議が行なわれ、この席でストーリーの大枠とキャラクターデザインの原案が完成します。なにやら宴会三昧だったらしいこの会議は当時のどのムック本にも載っているほど有名なもので、これには監督の神田氏をはじめとして星山氏、平野氏、伊東氏、植田氏、芦田氏、わたなべ氏、外池氏が参加されています。
秩父で行われたこの合宿会議で大枠が決まったことにより、いよいよ本篇の制作がスタートします。当初「ヴァイファム」であった番組タイトルはその後「バイファム」と改題され、5月には早くも第1話がクランクインします。
…という流れで制作が始まった「バイファム」はこの年の10月からTBS系列で放映がスタートするわけですが、この当時筆者は12才、小学6年生でした。私が住んでいた関西地区では金曜の夕方5時から「ダンバイン」「モスピーダ」「ボトムズ」「ドルバック」といった4本のロボットアニメが連続して放映される(注4)という異常事態で、夜7時から放映の「バイファム」はその大トリという存在でした。当時購読していたコミックボンボン誌での事前告知もあり、私は幸いにも「バイファム」を第1話から見る機会に恵まれました。当時はガンダムプラモの大ブームであり、放映開始前はキャラよりもラウンドバーニアンを始めとするメカニックに注目していた記憶がありますし、実際アニメ誌などでの取り上げ方もそういう切り口が多かったような気がします(特にバイファムらRVの身長がガンダムと等しい約18メートルというのは、それまでガンダムにハマっていた私達を引き付けるのに十分な設定でした)。
しかし実際に始まった放映を見てみると、どうもこの番組は「ただのロボットアニメ」ではないようです。オープニングは英語だし(注5)、主人公が第1話で主役メカに乗り込んで敵メカを倒したりもしません。その主役メカは登場した途端敵メカに撃墜される有様ですし、主人公達はとりあえず逃げ回っているばかりでハラハラドキドキの戦闘シーンもなし。かといって話がつまらないのではなく、これまでにない面白さがある。何より自分と同年代の登場人物の個性に大いに引き付けられるものがあるのです。当時ガンダムやらダンバインやらを描きまくっていた私の授業のノートは、またたく間にバイファム関連の絵(というか落書き)で埋め尽くされる形となりました。
そんな中、ひとつ大きな難関が待ち構えていました。どんなに頑張ってもバイファムキャラが描けないのです。バイファムらRVはなんとか描けたとしても、芦田氏やわたなべ氏が描くバイファムキャラというのはあまりにも模写するには難しすぎるのです。なんとか描きたい。でも描けない。翌年4月に中学に入学した私は、キャラの絵を描きたい一心で(中学にマン研はなかったので)美術部に入部します。結局バイファムキャラの絵をちゃんとした形で描く機会は最後までなかったものの、このおかげで私自身は中→高→大と計10年間にわたってズルズルと美術部に在籍(注6)し続ける羽目になってしまいます(そういう意味では、私の人生に大きく影響を与えたアニメなのですね、バイファムは)。
またバイファム劇中で「身長が160センチ以下だとRVを操縦できない」という設定がありましたが、私はなんとかバイファム放映終了までに身長が160センチに達して当時中学の身体測定で大喜びしたのを覚えています。
(注4)ボトムズが17時55分スタートである以外は完全に30分刻みでの連続放映(もちろん放映局はそれぞれ違う)。ちなみにバイファムのあと、19時半から「宇宙刑事シャリバン」を見るのが当時の定番コース。
(注5)当時小学生だった私に英語が分かる訳はなく、「どうもあの歌は英語で歌ってるらしい」というレベルの認識。
(注6)絵を10年間描いていた割にはちゃんとした絵の勉強を一度もせず、結局絵とは何の関係もない仕事に就いているのが私らしいというか、なんというか。別にいいんですけど(この項大いに余談。失礼)。
■視聴率の苦戦、打ち切り説と署名運動
しかし鳴り物入りで放送がスタートした「バイファム」は視聴率的には苦戦を強いられ、ゴールデンタイムでありながら視聴率は一時2.8%まで落ち込みます。(注7)「ドラえもん」等強力な裏番組があったとはいえ、当時の苦戦ぶりが分かる数字です。そのため当初60話前後を想定して制作されていた物語は急遽第2クール(第23話)での打ち切りを視野に入れたストーリー展開を余儀なくされることになります。
そこで「子供たちが地球軍の力で両親と再会してハッピーエンド」という筋書きのために用意されたキャラクターが、本篇第22話で登場した地球軍のローデン大佐です。最終的に放映延長が決定したことにより彼の役割は子供たちに補給物資を渡すというものに変更されましたが、彼が子供達を親元に導くことで物語が完結を迎えていた可能性は存在していたわけです。なお彼の乗る地球軍の駆逐艦の名はレーガン。言うまでもなく当時のアメリカ大統領から取られたネーミングです。この1983年〜84年はほかにもソ連のアンドロポフ書記長の死去など、政治・外交面で何かと大きなニュースがあったことも特徴です。
ファンの署名運動などもあり、結局バイファムは放映延長が決定します。スタッフ間では再度大きな会議が開かれ(これも前回同様秩父での合宿だったそうです)、第3クールのククト星篇の大まかな展開もここで決定しました。また、これと並行する形で新キャラ、メカのデザインが急ピッチで進められました(前者はミューラアやジェダ、そして後者はスリングパニアーが代表的です(注8))。
しかし「放映延長決定」の知らせに喜んだファンは、4月以降物語の続きを見るためにさまざまな苦労を強いられることになります。
(注7)余談ながら、新作「13」は深夜枠でありながら最高視聴率5.0%を記録。もっとも、低い時は1%台だったそうですが。
(注8)スリングパニアーの初期稿については「バイファム・パーフェクト・メモリー」(みのり書房刊)でデザインが掲載されています。なお年表(資料1)の上では放映決定以前に新デザインの発注があったことになっていますが、真偽のほどは不明です。
■放映時間帯の変更
4月を迎え、ファンを待ち受けていたのは「放映時間帯の変更」というショッキングな事態でした。従来金曜夜7時から放映されていた「バイファム」の番組枠が金曜もしくは土曜日の夕方5時からに変更になったのです(資料2参照)。夕方5時への時間枠変更はまだましな方で、北海道地区では放映が土曜昼の1時からに変更されたのをはじめとして、一部地域では放送がそのまま打ち切られる事態となりました。大分放送など1ヶ月程度で継続放送が決まった局もありましたが結局再放送すらされなかった局もいくつかあり、その結果「第24話以降のバイファムを見たことがない」というファンは今でもおられるようです。
また放映が継続された地域でも、放映時間帯の関係で見ることができないというパターンが多発しました。特に当時中学生以上、つまり1972年3月以前に生まれていたファンはバイファムを観るためにクラブ活動との戦いを強いられることになりました。当時はビデオデッキも普及しておらず(後述)、視聴者は放送を見るためにさまざまな努力をしたものです。筆者はたまたま通っていた中学が自宅から非常に近い位置にあったため夕方5時からの放映を見ることができましたが、それでも数話見逃した記憶があります(それでもきちんと内容を覚えているのはアニメ誌を購読していたからか、それともこの翌年の夏休みの毎日放送での再放送で全話を見直したからでしょうか…)
いずれにせよ、当時のファンは皆「バイファム」=「後半は必死になって観ていた」という共通体験をお持ちなのではないかと思います。
■「君はス・テ・キ」の発売
この年の6月25日には、挿入歌「君はス・テ・キ/THE ASTRO ENEMY」のシングル盤が発売になりました。この直前に放映された第34話では冒頭のミューラア登場シーンで「THE
ASTRO ENEMY」が効果的に用いられており、そのカッコよさにしびれた私は放送を録音したカセットを聴きながらシングルの発売を待ち焦がれていました。発売日にレコード店に走ってこのシングル盤を手に入れてからというもの、私は「THE
ASTRO ENEMY」ばかりを繰り返し聴き、裏面に収録されていた「君はス・テ・キ」を聴くことはほとんどありませんでした。当時はどちらかというとテンポの早い格好いい曲が好みだったため、カップリングである「君はス・テ・キ」は正直なところいまいちピンとこない曲だったのです。
しかしこのシングル盤の発売2週間後の第36話でこの曲が用いられたことにより、当初の私の評価は完全に逆転してしまいました。その美しいメロディは本篇の映像と絶妙のバランスを保っており、とてつもないインパクトを私に与えてくれました。この曲の2度目の使用となった第38話、そして3度目の登場となった最終回についてはもはや私ごときが語るまでもないでしょう。本放送から十数年経った今でも、この曲はより大きな感動を呼び起こしてくれます。むしろ大人になった現在であるからこそ、あの歌詞に共感できる部分が大きいのかもしれません。
■ロス五輪の功罪
話は再び84年に戻ります。
この年の夏、ロサンゼルスオリンピックという一大イベントがありました。ダイジェスト番組放映の影響によってバイファム本篇は地域によって2週間前後の放映休止を余儀なくされ、第40話「ミューラアの秘密」から第41話「カチュアを撃つな!」の間には実に数週間のブランクが空くことになります。
しかしオリンピックは意外なところにその余波をもたらしました。家電メーカー各社による大キャンペーンにより、全国各家庭へビデオデッキが急速に普及することになったのです(中村雅俊の宣伝によるバーコード予約ビデオのCMを覚えておられる方も多いことでしょう)。このオリンピックを機会にデッキを購入したという家庭は多く、余談ながら筆者の家も例外ではありませんでした。このため、オリンピックよりも後に放映されたバイファムのシリーズ後半だけは録画テープが現存している、というファンは少なくないようです(正確なデータでいうと、ビデオデッキの世帯普及率は、84年3月:18.7%→85年3月:27.8%と急拡大しています。またこの84年のビデオデッキの生産数量(輸出含む)は、前年比233%という伸びを記録しています…以上通産省及び経済企画庁調べ)。
また、この年のビデオデッキの急速な普及によってオリジナルビデオアニメーション(OVA)が定着するようになり、バイファム放送終了後に総集編+新作で3本のOVAが制作されることになります。前年83年の「ダロス」「バース」などのOVAをきっかけとし、翌85年の「メガゾーン23」の大ヒットによりOVAはひとつのジャンルとして急速にファンの間に浸透していくことになります。
…オリンピックが終わり、そして秋が始まろうとする頃「バイファム」の物語は感動の最終回によってその幕を下ろしました。その後数本のOVAが発売された際はなんとかそれらを見ようと奔走した記憶がありますが、どちらかというとあの強烈な最終回のインパクトからか「バイファムの物語は終わったのだ」という思いが強く、これらのOVAは(出来の良い悪いの問題ではなく)当時それほど印象に残るものではありませんでした。翌85年にはガンダムの続編である「Zガンダム」(注9)の放映がスタートしたことでアニメ誌の話題はすべてそちら中心になってしまい、私達の関心もそちらへ移行してしまった感があります(あ、ガラットもありましたね…笑)。
当時の視聴者に強烈なインパクトを与えたバイファムという作品は、こうして他の作品にスポットライトを譲る形となりました。
(注9)「Zガンダム」は演出の関田氏や第12話「ジャブローの風」の脚本を担当された平野靖士氏など、バイファムスタッフの方も何人か参加しておられます。また「13」の監督である川瀬氏も演出として参加されています。
■そして13年後…
そしてあれから十数年、大人になった我々の前に「バイファム」は再びその姿を現すことになりました。オリジナルシリーズを補完するエピソードとして描かれた新作「13」では、子供達13人は当時と変わらない姿を我々に見せてくれます。彼らにとっての十数年はほんの一瞬のことだったに違いありません。そして視聴者だった私達は十数年前と変わらぬ思いで彼らを見守ることになりました。
私は、今回の新作によって甦ったのは「バイファム」そのものではなく、ひょっとすると「バイファムと共にあった当時の記憶」だったのかもしれないと思います。あれから十数年経った現在再び彼ら13人に出会えたこと、そしてこのまま記憶の中で風化していくかもしれなかった「バイファム」の記憶を現在に甦らせてくれたこと、そういう意味で「13」という作品の放映は、バイファム世代にとって本当に貴重な機会だったと思います。皆様はいかがお考えでしょうか。
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